研究室トップページ

トップ > 国際連携研究 > 03/27-04/01, 2008 インドネシア(バンドン・アチェ)

03/27-04/01, 2008 インドネシア(バンドン・アチェ)

作成日: 2008.04.01
更新日: 2012.12.06

インドネシアバンドン工大における集中セミナーおよび

バンダアチェにおける復興庁(BRR)による活動の視察

(21世紀COEプログラムの支援を受けた。2008年3月27日から4月1日)

 

☆3月27日

21世紀COEプログラム「エージェントベース社会システム科学の創出」リーダー出口弘先生とともに、11時発のガルーダ機でデンパサール経由でジャカルタ着。深夜0時を過ぎる。ウトモ君(私のところで学位取得。最近ITB-SBMの准教授に昇格したとのこと、大変おめでたい)が迎えに来てくれた。昨年8月以来の再会。

 

☆3月28日

ジャカルタから車で移動。バンドンのHotel Horison Dagoにチェックイン。

 

2時。Vice Dean of SBMと共同研究を促進することで合意。大学レベルでは相互協定があるものの、より具体的な取り決めとする予定。SBMの教育体系について説明を受ける。我々の教育研究コースときわめて近いことに驚く。

併せて、Entrepreneurship のコースを卒業して写真のモザイク版を作る会社を立ち上げた学生に会い、ネットを通した商売の可能性についてアドバイスを行った。以前彼らが作って送ってくれた私の顔写真のモザイク版はいまも教授室のドアに張ってあり、なかなか好評である。また、バンドンは最近ファッション産業で有名になっているとこのとで、翌日その方面の経営者にインタビューができることになった。

 

3時から6時。SBMのファカルティメンバーが6チームを作り、それぞれが競争的に成果を競っているとのこと。それにより、予算配分も決まるようだ。研究概要、成果目標、ロードマップ、これまでの成果という共通のフォーマットで各チームが発表しそれに対してコメントをする。

 

P3280038.jpg

(あるチームの発表風景)

 

 

終了後、ウトモ君の研究室でネットにつなごうとするもうまくゆかずあきらめる。7時近くになり、近くのレストランでウトモ、マナハン、サンティ、新人と夕食。8時過ぎ、ホテルへ。

 

☆3月29日

8時にホテルを出てITBへ。

 

9時から私の講演。サービスイノベーションの学問的な将来性、教育の必要性、東工大との交流などについて話す。続いて、出口先生の講演。

終了後多くの質問が2人に殺到。東工大の学生より、なんと積極的なことか。丁寧に答えて、バンドンでのミッションは終了。

 

 

PICT00381.jpg

P3290050.jpg

 

(左から、出口、木嶋、ウトモ、ウィディア)

 

PICT0041.jpg

 

予定より少し遅れて12時過ぎにランチへ。大学近くの中華Pagoda。ここは、いつもゆくところで、今回は我々が支払うことにした。

 

3時から、ファッション産業(18人程度の規模)の経営者をインタビュー。

屋台の形から出発し、中国が生産している偽ブランド品をサンプルとして取り寄せ、これを地元のファミリービジネスに模倣させるというビジネスモデルを確立。他者を寄せ付けない強さで独走しているとのこと。偽ブランドにもいくつもの種類・階層があることを知る。中国製より品質のよいインドネシア製の偽ブランド。

ファミリービジネスを囲い込まず、お互い自由に組み合わせを変えてビジネスを進める。最近は、ファッションだけでなく、イチゴ栽培農家を組織化してジャカルタからの観光客相手のイチゴ狩り、ジャカルタからの途中にあるダムを利用した川遊び施設の運営、などにも進出。

様々な業種にポートフォリオを張り、多額の資金を一つに集中しない堅実な手法は、経験を通して身につけた経営哲学のよう。テレビを見たり、他者との話の中からビジネスチャンスを見つける嗅覚は、なかなか鋭い。

従業員が給料をもらうときに私にありがとうというのは最悪。こんなに働いているのになぜ少ないかと文句を言ってくれた方がいい。従業員にすべてをオープンにし、彼らによって会社が回っているとの印象づけるというのは、なかなか正論。偽ブランドビジネスにまつわる問題も十分に理解したうえで、したたかにアグレッシブに生きてゆく経営者。インドネシアのファミリービジネスの技術(縫製、靴)は優秀だが、需要・デザインへの頭・知恵がないという。

引き続き、店に案内してもらい、偽ブランドでも中国製とインドネシア製の違いを実感。

 

4時半に、出口先生と別れ先にホテルに帰る。彼は、市内の書店に向かう。

6時半に全員再会し、ホテル近くのレストランThe Valleyへゆく。駐車している車のナンバープレートから判断するに、お客の6・7割程度はジャカルタからのよう。高速道路のおかげか。

 

☆3月30日

5時にホテルをチェックアウトし、ウトモ君とともにジャカルタに高速道路にて移動。さすがに早朝ということもあり、2時間少しで空港へ到着。直ちにチェックイン。空港のラウンジで軽い朝食とともに、インドネシア滞在中これまで接続できなかったインターネットにようやくアクセスできた。時間ぎりぎりまでつなぎ、メールをすべてパソコンに落とすことができた。やれやれ。

 

1時半頃アチェの空港に到着。偶然、ウトモ君と同時期に東工大の物質丸山先生のところで学位を取った元留学生に遭遇。現在当地の大学で働いているという。Rickyとドライバー、案内係が迎えに来てくれる。車で宿泊先のHermes Palace Hotelに移動、チェックイン。当地でもっとも豪華なホテルということで、確かに身に余るほど。

2時過ぎ、地元料理である牛肉のスープの昼食を摂りに、Sop Langsaへ。

 

P3300005.jpg

(牛の骨付きスープ。骨髄を飲む?)

 

3時前から津波の被害を受けた地域のなかで、ポイントとなる5カ所を車で案内してもらう。

 

1) Panteriek (Housing Complex by Budha Tzu Chi) 台湾の仏教NGOの支援でできた住宅。質がよく人気という。モスク、教会も域内にある。

 

   

P3300014.jpg

P3300019.jpg

 

2) PLTD (Diesel power generator brought into town by the tsunami)

 

P3300025.jpg

 

 

3) Meuraxa (Evacuation building by several NGOs, BRR and JICS)

たまたまJICS(財)日本国際協力システムの2名の方に会い、話を聞くことができた。BRRが設置まで各団体、プロジェクトの調整が大変であったこと、日本は露出度はあまりないが実際はもっとも貢献しているとのことであった。

驚いたことに彼らと一緒にいたアシスタントは、ウトモ君と同時期に建築の滝口先生のところで学位を取った東工大修了生であった。彼の大学では4名の東工大留学生がいるが、近く一人がDeanになるとのこと。みんな活躍している。

 

P3300054.jpg

 

4) Kampung Jawa (integrated waste processing facility by JICA)

車で通過。

 

P3300073.jpg

 

 

5) Neuheun (Indonesia- China Friendship village by China govnt, NGOs and BRR)

36平米の300棟あまり。80棟はいまだ空いているという。場所の問題があるのか。最近電気と水が来たという。

 

P3300095.jpg

 

7時、ホテルに寄らず直接川縁にあるドイツのNGOが関係するBBQレストランで夕食。日本にも輸出されているタイガープローンのガーリックソースを注文。

 

9時前にアチェコーヒーでもっとも有名な店にゆく。政府要人がここで会談をすることもしばしばあるとのことで、ほぼ満員状態。実際は11時過ぎにはもっと込むという。隣のメダンが産地のマンダリンはよく知られているが、アチェコーヒーは他の豆とブレンドされて売られている。うまく知名度を高めればもっと利益が出るのではないか。特殊な布ドリップで深煎り豆を煎れる。250グラムを豆で3袋購入。出口先生は同6袋購入。

 

 

☆3月31日

9時前にチェックアウトし、ホテルのすぐ近くにあるBRRの本部へゆく。9時前着。

 

9時から11時過ぎまで、Said Faisal (Deputy for Economy and Business)から、PPTを用いたプレゼンテーションがあり、それに関して質疑応答を行う。BRR側からBill Nicols (Adviser to the Director), Ricky その他2名が同席。こちら側からは、出口、ウトモが参加。

アチェの長い紛争の歴史は、当地の人々の「中央政府はinjustice」という思いが根底にあるという。当地で産出される原油等の資源の収入の7割が中央政府に持って行かれるという現在の問題点もさることながら、古代独自の王国を築いてきたことから生まれた強いプライドこそが、アチェ自由運動Free Ache Movementの原動力となってきた。なお、Saidによれば、当地での紛争には宗教的な側面は全くなく、また外国からの介入も正式には確認されていないということで、その意味では「単純な対立構造」(Bill Nicols)といえる。

そのような長い紛争の中で、2004年末突然津波が襲い、このインドネシアのなかの局所的な問題が、急に国際社会の注目を浴びることになり、当事者にも当惑が当然あった。この津波には当然多大な災害をもたらした災難であったが、同時に人々の考え方Way of thinkingを変え、window of pride managementとして共生へのcatalysisの役割を果たしたという。

そのような中で、BRR (Rehabilitation and Reconstructions Executing Agency for Ache and Nias) は、津波の1年後(2005年)に設立された2009年4月までの期限付きの復興支援機関である(このオフィスに700名、全体で1500名の規模)。具体的には、住宅建設等に関わる数多くの政府機関、NGOsの調整であるが、その根底には経済を如何に強くするかがある。そのために、経済秩序を回復し、輸出管理の適正化、付加価値の創造、教育等の人材育成に重点を置いている。そこではスピード感を大切にし、全体を俯瞰するという意味でのシステミックアプローチが大きく謳われていたのには驚いた。クントロ長官の影響かもしれない。

しかし、ここでも、汚職問題はかなり深刻でそのための汚職対策のための特別な組織を立ち上げたという。また、中央政府のお声掛かりで設立されたBRRと当地の政府との2重構造が存在するのではないか、非整合性が問題ではないかと質問したところ、BRRのメンバーとして当地の政府メンバーを含んでいるのでそれは大丈夫とのことだったが、本当だろうかとの気持ちがいまでもぬぐえない。たとえば、復興のために専門家の意見を聞く集まりをジャカルタのホテルで開催しそこでの成果を報告書にまとめたとしても、当地では本来住宅建設に使える貴重な資金を誰も見ない報告書作成と豪華なホテル代に使ったと非難されるという。専門家会議に対する見方がこんなに違うということである。

最後に、2009年4月以降、このBRRで築き上げた文化を次につないでゆく慣性力momentumを生み出すことが不可欠であると強調した。

 

11時過ぎから昼食の場所に行く移動時間も使って30分程度、Bill Nicols (Adviser to the Director)と会談。

彼の役割は、浅いかもしれないが広い範囲の知識、知性を動員してDirectorを支援することであり、個人的にクントロ長官をカリスマのごとく尊敬しているようであった。理論・概念と実践、資金と計画など広い範囲で物事を捉えることのできるワールドクラスの人物であり、常にフローチャートとデシジョンツリーで、ダイナミックに事態を捉え構想しているという。なお、BRRはもっぱら津波被害からの復興が目的であり、re-integrationのためにはBRAがあるとして、両者の立場を明確にした。

 

13時ごろまでimperial Kitchenで中華料理。ここで、2年前に本学に来てくれて話をしてくれた、元Free Ache Movementの闘士であり、現在はBRRでSecretary of Executing Agency を務めているTeuku Kamaruzzamanが参加してくれた。彼によれば、最近の情勢は若干不安定化の方向に動いており、それを正常化させるには、政治よりまず経済の強化であるとのことであった。

 

13時過ぎ、空港へ移動。Billが同乗しシステム論の話をしながら空港へ。元々キャンベラベースのジャーナリストということで、ゲーム理論家サイバネティクス、システムについても割と話が合う。そういえば、negative feedbackやlearningなどの語彙を先ほども使っていた。

 

2時、予定より若干遅れて、ジャカルタ行きの飛行機に乗り込む。Mission Completed! 

 

☆総括

今回の訪問は短期間であったが、きわめて密度の高いものとなった。ウトモ君のおかげで、特にBRRとの会談など思いの他の成果に我ながら満足。クントロ長官の人望の高さも実感。今回はサウジアラビア訪問中ということだったが、次回9月にはぜひ会いたいと思う。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

ページの先頭へ